ケンヤン[2011-05-16 12:31:53]
学生時代のことです。学校でいじめられ、家に帰っても兄弟にいじめられとダブルパンチで苦しんでいたのですが、早朝あるキッカケで公園の掃除をし登校してみると、僕をぶん殴ってくる友人が何もしないどころか笑顔で近ずいてくるではありませんか。鬼のような彼が天使のような微笑で。結局その日は何も無く家路に着き、久しぶりの平和を味わいました。兄弟は途中まで良かったのですが夜中に暴れ始めました。その日一日を回想してみると、いつもと違う変化は朝の掃除をしたという一点のみでした。何かあると思った私は
次の日の早朝は何もせず登校。すると昨日はあれほどフレンドリーだった彼が冷酷な瞳でまた殴りかかってきました。休み時間のたびに恐怖に震え、憂鬱だったのですが、昨日、掃除は何かあると気ずいていた私は下校前の掃除を一生懸命やりました。帰宅して、いつもどうり過ごしていると、暴れるはずの兄弟が今日は静かです。結局その夜は何事も無く一夜を終えました。これによって確信を得た私は早朝に公園の掃除(ベンチを濡れた雑巾で磨きます。二つの公園で十六コくらい。これでも不幸が起こる時は量を増やします)をし登校。ヤッパリというくらいドンピシャで彼は天使の笑顔を見せてくれました。下校前も一生懸命掃除。そして帰宅。やはり何事も起こりません。兄弟も借りてきたネコのように静かでした。持続時間はどれくらいだろうと興味を抱いた私は、いろいろ実験してみたのですが、どうやら一回の掃除で十二時間が限界という結論に達しました。ちょうど十二時間を過ぎたら彼らが暴れ始めたからです。その後お坊さんに聞いた話ですが、人間の現在の行為と過去の行為はちょうど雄羊の角と角がぶつかるようにして出会い、弱いほうが打ち消されるのだそうです。私の過去に不道徳な行為があり、それが返ってきたのだそうです。私は掃除という行為によって過去の悪行の発芽を抑えていたそうです。彼らは殴ることで私に起こるはずだった不幸を肩代わりしてくれていたらしいです。「春に種を蒔かずして、どうして秋の収穫が得られるだろうか」と弘法大師空海も言っておられましたが、将来、私たちが黄金の稲穂を刈り取るか、カラスのエンドウを刈り取るかは私たち
一人一人の行為にかかっているようです。不登校や家庭内暴力が昨今問題視されますが、本人の善行によってある程度解消可能だと思います。お近くのNPOに衣服を寄付したり、ユニセフ、WFP世界食料計画などに募金したり。私もいろいろやってみたいと思います。「武士道は宇宙の運行と道徳は無関係であるというハクスリーの見解を否定する」と新渡戸稲造先生は言っておられましたが戦後ハクスリーさんの見解を全面支持して不道徳の道を選んでしまった結果、自由が不道徳を生み、非武士道になり、様々な問題が起こっているのではないでしょうか?
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