匿名さん[2011-09-08 12:45:17]
老師 求道者だけでなく、潜在的、心理的平安を高めたいと思っている人は、誰でも無執着を実践しなければなりません。無執着であることは、すべての人生の経験に対して観照者になることを意味します。執着とは心に荷物を積み込むことであり、無執着は背負っている荷物を下ろすことです。心に荷物を積み込めば積み込むほど、緊張が強くなって、その荷を下ろしたいという要求が出てきます。現代社会では、人々の心はますます否定的な思いでいっぱいになり、重い荷物を背負って歩いている状態になっています。だからこ
そ、無執着への強い要求と純真でいたいという思いが私たちの心に湧き起こってくるのです。
質問者 老師、私は無執着でありたいと思うのですが、実践にあたってはそのことに対する確信が揺らいでしまうのです。
老師 確信は気づきによってのみ訪れます。気づけば気づくほど、ますます確信を強めることができます。世界をちょっと長めの一時停車場だとみなしなさい。私たちはみんな旅をしています。次から次へとさまざまなところを訪問します。バスや電車で旅行するとき、たくさんの乗客に出会い、その人たちと、人生に対する考え方や、さまざまな世界で経験した出来事を話し合ったり、意見を交換したりするでしょう。長く話がはずんだ人に対しては、愛着を抱くかもしれませんね。けれども乗客は各々の目的地に向かっています
。ですから、どこかで別れなくてはなりません。ある人に出会っても、どこかに着くたびに立ち去らなくてはならない。それをみんな自覚しています。この自覚(気づき)が開発され、肯定的な態度でそれに臨むことができるようになると、人生のあらゆる場面で、この気づきがあなたをしっかりガイドするようになるでしょう。
質問者 この世に生きている間に無執着を実践しなさいとおっしゃっているのですか。
老師 (笑って)この世でしなかったら、いったいどこで無執着を学ぶのですか。死後ですか。実際、無執着の実践は死に対する恐怖を克服する道でもあります。苦痛から逃れて、至福ある死を私たちに保証してくれます。
質問者 どうすれば、そのような死が可能なのでしょうか。
老師 無執着でいればいいのです。そうすれば、死の体験をしているときでさえ観照者でいられるからです。無執着は正しい態度なのです。それは正確な知覚のありかたです。例えば、映画を見ているとき、その中の登場人物と自分を同一視して、その後の人生でその登場人物のまねをするとしたら、何かいいことはありますか?それとも悪いことがあるでしょうか。でも、それを単に映画なのだからという自覚をもって見ていれば、本当に楽しんで見られます。平安への真の道は、非物質的な考え方と生き方なのです。例えば私た
ちはお風呂に入りますが、ずっと入浴し続けることはありません。きれいになったらお風呂から出てきます。同様に道徳的、精神的生活を送りたいと思うなら、あなたの人生を潜在的傾向性(欲望)を消滅させることを念頭において生きなさい。自分の人生を家だとするなら、それを取り仕切る家長は自分なのだと、そう自覚して日々を暮らせばいいのです。家庭生活に没頭するのではなく、その生活を通して出てくる潜在的傾向性を消滅させ、自分を束縛しているものから自由になるために生きているのだということを、忘れないようにしなさい。目的は欲しがる欲望という潜在的傾向性を消滅させることであって新たに蓄積していくことではありません。
ジャンル:暮らし
タグ:教育、道徳
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