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[新規] 道徳授業の教材に 先生と二人の弟子



匿名さん[2011-09-08 12:55:42]
ある先生に二人の弟子がいました。先生はいつも一方の弟子に、道場内の、より責任の重い仕事を任せていました。もう一人の弟子は、自分が道場で一番の弟子だと思い込んでいましたからそれが気に入りませんでした。彼は一番目の弟子を嫌うようになりました。ある日、彼は先生に「先生、どうして私に道場の仕事を任せてくれないのですか?私の方が彼よりもずっとうまくやってのけますよ。」と尋ねました。先生は二人の弟子を呼び寄せ、道場の外へ出て、人の性質について学んでくるようにと指示しました。一番目の弟子が歩いていると、男が道端で小さな子供に飴玉をやって励ましているのが目にとまりました。よく聞いてみると、その男は実は人殺しだということが分かりました。それでもその弟子は、その男の善い側面を見ることができたことを嬉しく思いました。さらに歩き続けていると、飢えと渇きで衰弱して路上に横たわっている老人に、誰かが水を飲ませているところを見ました。彼はその男が泥棒だとわかりましたが、泥棒にも同情心があることに嬉しさを感じました。次に,一人の女が別の女の涙を拭いて慰めているところを目にしました。その優しい女は実は娼婦だったのですが、女の心に思いやりを見た時、彼はその娼婦を蔑むことはできませんでした。彼は先生のもとへ戻って、目にした善行を特に褒めながらすべてを伝えました。ちょうどその時、もう一人の弟子も帰って来て、ある男が子供を叩いていたことや、誰かが乞食を叱っていたこと、さらに看護婦が患者にとても意地悪な態度で接していたことを報告しました。それらの光景はその弟子の心に、目にした人たちに対する嫌悪感を引き起こしただけでした。しかし実際には、子供をぶっていた男は寛大な心の持ち主で、いつも大勢の貧しい子供たちに食べ物や衣服を施し、彼らの教育費も出していました。その子には盗みの癖があって、いくら言い聞かせても直らなかったので、その子が過ちに気づくように、ついに叩くという手段を取ったのです。しかし、その弟子はそれを認めることはできませんでした。彼は「いかに善意であろうと、子供を叩くなどということが許されるものだろうか?まったく、けしからん奴だと思っていたのです。弟子が二番目に出会ったのは人々に気前よく施しをしている男でした。その男は五体満足な者が物乞いしているのを見て、神から授かった健康な身体を役立てて、生活費を稼ぐべきだと説得していたのです。しかし、その弟子は、これもまた認めようとはせず、「いくら気前がよいからといって、何の権利があって他人を叱りつけるのだ?何も施す気がないのなら、その乞食をただ追い払うだけでよかったのだ。」と思ったのです。最後にその弟子が見た看護婦は、患者たちをとても大切に思っていて、昼も夜も彼らの看病をしている人でした。その患者には包帯をはずしてしまう癖があり、そのせいで傷がなかなか治らなかったのです。看護婦は患者を思って叱っていたのです。それでも、その弟子は、これもまた気にくわなかったのです。「きっと看護婦は傷口がヒリヒリする薬を塗ったに違いない。だから、患者は包帯をはずしたのだろう。それなのに患者を叱るとは、なんと意地の悪い女だ!」両方の弟子の話を聞いてから、先生は、「この世には誰一人として完全な悪人はいない。どんなに悪い奴だと言われていても、何かしら善いところがあるものだ。お前たちの一人の方は、人殺しや泥棒や娼婦の内にも善いところを見ることができた。自分の内に善があると、他の人の内にも善を見ることができるものだ。それが、私たちに必要なものの見方なのだよ」と説きました。先生はもう一人の弟子には、「息子よ、お前は他者の内に自分自身の性質を見てきたのだ。たくさんの美点を持つ者の内にも欠点しか見ることができなかった。いつの日か、おまえ自身の性質が変わったときに、あらゆるものの内に善を見ることができるようになるだろう」と言いました。現在の私たちの心は後の方の弟子とおなじですね。たとえ千の善があったとしても、私たちはそれを見ようとはせず、あるかもしれない、たった一つの過ちだけを見ようとする。けれど、善い人は他者の内に、なんであれ善いことだけをみる。そのような態度をもったときに初めて、すべては善であるとか、すべては愛であるとか言うことができるのです。



ジャンル:暮らし
タグ:教育、道徳

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