匿名さん[2011-09-08 13:01:40]
ある若者が先生を訪ねて、弟子にしてほしいと頼みました。そこは大勢の在住者を抱えた道場でした。先生は若者に、「修行の生活は非常に厳しいものだ。今日のところは帰って、もっと後で出直しておいで」と言いました。若者はとてもがっかりしてしまいました。その様子を見て先生は「まあ、よかろう。お前はどのような仕事ができるのかね?」と尋ねました。そして、いくつかの仕事を提案しましたが、若者にとってはそのどれもが不慣れなものでした。最後に先生は言いました。「では、馬の世話をしてはどうかね?」若者は、「先生のお望みどおりに」と応え、馬の世話を任されました。この新しい弟子は、自分に与えられた仕事をとても献身的に行ったので、馬たちは、めきめきと逞しく健康になりました。その先生は普段、弟子たちに何か特別な教えを授けることはしませんでしたが、毎朝決まって詩句を一つ与え、それを黙想し、実践することが日課となっていました。それが彼の教え方だったのです。ある朝先生はいつもより早くそれを始めました。その日の詩句を弟子たちに授け、馬に乗って出かけようとしていたとき、例の若い弟子が詩句をもらうために駆けてきました。若者は仕事が忙しくて、先刻先生が呼んだときには来られなかったのです。彼が、「先生!今日の私の詩句は何でしょうか?」と尋ねると、先生は厳しい口調で応えて、「私が出かけるのを知らなかったのか?今はその質問をするときか?」と言ってそのまま馬に跨り、飛び出して行きました。若い弟子は気を落とすこともなく、「私が出かけるを知らなかったのか?今はその質問をするときか?」という先生の言葉を黙想し始めました。夕方になって、先生が帰ってきて、弟子たちの中にその若者がいないことに気づき、彼のことを尋ねました。他の者たちはあざ笑いながら言いました。「あの間抜けなら、どこかに座って「私が出かけるのを知らなかったのか?今はその質問をする時か?」などとぶつぶつ言っていますよ」皆が笑い出したので、事情を察した先生は若者を呼んで、何をしていたのかと尋ねました。若い弟子は、「はい、今朝先生から頂いた言葉を黙想していました」と応えました。先生の目には涙が溢れました。先生は若い弟子の頭に手を置いて祝福を与えました。それを快く思わなかった他の弟子達は、先生に、自分たちの不平不満を申し立てました。「先生、あなたは長いことここに居る私たちを全員無視しました。どうして、あのような愚か者をそんなに可愛がるのですか?」先生は弟子の一人にアルコールを少々持ってくるように言いつけました。アルコールが持ってこられると、先生はそれに水を混ぜ、弟子たちの口に少しずつ注ぎました。そしてすぐにそれを吐き出させ、「誰か酔った者はいるか?」と尋ねました。「まさか?すぐに吐き出すようにと言ったではありませんか」先生は話し始め、「これは、私が与える朝の詩句に対する、お前達の態度でもある。私が言ったことを聞いても、すぐにそれを忘れてしまうのだ。しかし、お前達が疎ましく思っているあの若者は、そうではない。彼はほんの少しの疑いも抱かずに、私の指し示すことを何でも受け入れる。彼の内面には、そのような純粋さがある。大体、お前達に馬の世話を任せていたときには、ちゃんと餌が与えられておらず、馬たちは痩せこけて、まるで骨と皮のようだった。身体を洗ってやることもなかったから、馬たちはいつも気が立っていて、誰かが近づくと蹴ろうとした。しかし、彼に世話を任せてからは、馬たちは健康になって肉付きも良くなった。今では誰が近づいても、寄ってきて首を振ってなつくようになったではないか。彼は、馬達に餌だけではなく、愛情も与えたのだ。彼は一つ一つの行為を、ただその行為のためだけに行い、自分の義務を真面目にこつこつとやり通した。そして何よりも、彼は私の言葉を疑わず、まるごと吸収することができるのだ」と言いました。私たちはその若者のようであるべきなのです。先生のたった一つの言葉でさえも、無意味だとは思はないでください。先生の言葉をよく噛みしめて、完全に吸収するだけの心構えがなければならない。そのようにする者には、誰であろうと、先生は自らの慈悲が流れるのを止めることはできないのです。
ジャンル:暮らし
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