みうらじゅんは京都の誇り[2011-10-06 13:24:32]
京都の家々では南無阿弥陀仏を唱える人々が多いです。「後生一大事」といって今生で作った身、口、意の罪業の滅罪のため、老いも若きも一生懸命唱えます。業火転じて清涼の風となるという具合に三時間も唱え続ければ家庭内暴力だろうが上司のいびりだろうがピタリと止みます。「なむあみだぶ」か「なんまいだあ」と繰り返すのが一般的ですが、もともとインド語ではナーマ、アミターバ、ブッダというのが本家の発音です。でも問題なのは純粋な信心ですから、日本流だろうがインド流だろうがどちらでもいいです。個人的にはナーマ、アミターバと唱えます。ブッダは付けません。インドでは神仏の名前は呼び捨てもOKなので。必ずしも声を出す必要はありません。念じるから念仏なので。念仏は「行き易くして人無し」と言われるように、簡単に誰でも実践できるけれども信じて唱えることは難しいそうです。もともと念仏は1175年、安元一年に源空こと後の法然が衆生救済のために五千巻の大蔵経典を五回読み返して中国の曇鸞大師と善導大師の言葉の中から見つけ出したものだそうです。今の世相と似ていて法が乱れ、人々の暮らしは困窮し、寄る辺の無い底辺にいる人々を救う方法はないかと血眼になって上人が探し当てた救済法です。当時の人々は文盲率が高かったので経典の読誦による救済法は難しい。貧者に施すことによる自己救済法も貪欲な人や貧者には難しい。善行による自己救済法も怠惰な人には難しいということで悩みに悩んで万人にできる救済法はないかとようやく探し当てたのが念仏だそうです。念仏だけでは心の集中が難しい場合、数珠を繰りながら唱えると集中できます。経典なども底本のしっかりした純粋性の維持されているものは実際的な力があります。読むだけで災い転じて福となるような強い力が封入されています。一例を挙げると、京都の大谷大学に入学した際に頂く真宗聖典はすごい力があります。2ページ~4ページ読んだだけで、法然上人の一枚起請文においては、たった1ページで読んだ本人を救済する力があります。百聞は一見にしかずで実際に体験してもらうと、そのすごさが分かるんですけど。ご利益といっても他者の憎しみを払い除けたりといった人間関係の改善が主なものです。賭け事で勝つとかの類は関知しません。
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