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[既存] 最小限の環境で修練を積んだほうが地力が付く



アイデアマンさん[2011-12-01 14:27:03]
おそらく少ない資源を有効に使うために様々なテクニックを磨かざるを得なくなるからだと思うんですが、コンピュータのプログラムなども昔のザイログZ80CPUや初代ファミコンの6502CPUなどで鍛えられた人のほうが現在の64BitCPU環境に移行しても高速なプログラムを書けるようです。通常8サイクルかかる処理を7サイクルで済ます方法とか、少ないメモリでグラフィック、テキストデータなどを詰め込むために徹底した高効率化、省資源化で鍛え上げてきた人たちは、いかにすればデータをコンパクトに纏めて最高のパフォーマンス発揮させることができるか解っているようです。今のゲーム機は初めからメモリの容量も大きいですし、クロックも速いため細かな工夫をしなくても望んでいる処理を実現できると思うんですが、そこで忘れ物をする可能性もあると思います。アップル2というパソコンは初代ファミコンと同じ6502を積んでいたそうですが、あれに付いてくるスティーブウォズニアクが組んだプログラムはスゴイそうです。囲碁や将棋の高段者は一手一手を点ではなく線で捉えるため、初手から終局までを正確に思い出せるそうですが、ウォズニアクさんが組んだプログラムも熟練者のみが分かる感覚で作られているのだと思います。音楽の世界も最初から贅沢な環境に身を置くと失敗すると思います。初代ファミコンは計5音出せるそうですが効果音などを差し引くと音楽用に出せるのは実質3~4音だそうです。これが音楽の勉強としては最高みたいです。というのは、それぞれの音が連携して最善音を出し合わないと、美しく響かないからです。昨今の万能シーケンサーで楽曲を作った人はトラックを沢山消費する傾向があると思うんですが、もし作曲者が最善音で楽曲を構築した場合、トラック数は少なくなるのではないでしょうか?いきものがかりさん、すぎやまこういちさん、カシオペアさん、BOOWYさんなどは最善音で音を構築できていると思います。3ピースのバンドや4人のカルテッドでやっているバンドは人数が少ないので、いかに聴かせるかを考えた時に、無意識的にバッハのような最善音の集合で組まないと間が持たないのを悟るのだと思います。最近の節電技にも似て一箇所に集まってご飯を食べたほうが電気喰わないよねみたいに、本当は別々の楽器で音出したいけど人数が少ないからオレがギターで全部やるよみたいな感じで纏めるんだと思います。本当はヴァイブにクラリネットのパートを、ギターにサクスフォンの4声のパートを両方ともオクターブ上で振り分けてピアノが5声全部を鳴らすとかやりたいけど、仕方ないから全部ギターで押さえるから高音と低音の補強、ボーカルとベースで頼む・・・とか言って試行錯誤しながらやっているのかもしれないです。和音の録音や入力も、あえて3和音なら3つのトラックで、4和音なら4つのトラックでバラバラに音数分バラして入力したり、サンプラーも敢えて1音のみしか音数を使わないという縛りを設けて鍛えたほうが自分のためになると思います。ド・ミ・ソなら、3トラックがド。2トラックがミ。1トラックがソとか、それぞれの小節でコードチェンジする際に各トラックの音はどういう連携で横に進行していくのか?オープンボイシングの時に各音はどのくらいまで開くことが許されるのか?クローズボイシングの時はどのくらいまで閉じた時に不快に聴こえるのか?とか研究するとバッハのような対位法の、織り重なるメロディーで楽曲を構成できるようになると思います。それで100曲作ったら和音にもう1音加えることを自分に許して、サンプラーのリズムも2音まで許して計6音で鳴らして、また100曲作るとか、少しずつ限定を解除して鍛え上げれば、上達すると思います。YMOの「テクノデリック」なんてLowBitの単音で数秒しか出ないサンプラーであれだけのことをやっていますし、音数も少ないのに未だに聴いていて飽きないのは、坂本龍一さんならピアノで、細野晴臣さんならギターやベースで、高橋幸広さんならドラムスで地力を付けて来たからだと思います。今は彼らのように時代が制限を要求するとか、テクノロジーが追い着かないとかはなくて、何でもあるけど、その道具を最善に使いこなす上で必要な制限を自分で判断して自分に課さないといけないのが昔と違うのだと思います。やはり下から一歩々々上がってきた人は強いですよ。8Bit、16Bit、32Bit、64Bitという流れ、4トラック、8トラック、16トラック、32トラックとか、ゲームの制限の解除はそのまま音楽の制限の解除の歴史と重なります。私はここに神の見えざる手の働きを感じるんです。与えられた環境で最善を尽くしたら、その人の努力に応じて少しずつ制限を解除して、さらなる高いステージを与えるという神の教育方針の厳格さと慈愛を。「私は人間を甘やかさない。しかし、良い仕事をした者、みなの役に立つことをする者、みなの幸せのために額に汗して働く者を私は祝福する」という意図を感じます。神は英語でG,O,Dと書きますが、Gはジェネレーション(創造)Oはオーガニゼーション(維持する、保護する)Dはディスティネーション(破壊)を表すそうです。この3つの属性は人間の行為の三属性を同時に象徴していて、人間の内にも同じものがあるそうです。インドには、人は自分に与えられた仕事を通して神と一体化できるという思想がありますが、音楽家は音楽を通して神の美を表現することで一体化を目指すように運命付けられているのだと思います。昔、スタジオジブリの宮崎駿さんにインド叙事詩ラーマーヤナをアニメ化してほしいという依頼がインドから来たそうですが宮崎さんは受けなかったそうです。おそらく現在のラーマーヤナは2万年前の原典が底本として完璧な形で存在せず、訳者それぞれの解釈によって様々に脚色されたり、まったく別の物語が混入したりして、原典の持つ精彩が失われているためだと思います。ラーマーヤナと並ぶ、5千年前のインド叙事詩マハーバーラタは、日本でも三一書房から全訳が出ていますが、これは底本がしっかりしていて内容はかなり原典に忠実なようです。一度読んでもらうと分かると思うんですが、人類に神が与えた珠玉という感じで、これを読んだら最後、もう出版されているあらゆる本は、お蔵入りを迫られるくらいの素晴らしさです。まさに一生もので、これがあればもう他の本が必要なくなるくらいのすごさです。もともと聖者が天啓を受けて書いた叙事詩なので文法の正確さ、言葉の巧みさ、比喩の豊富さ、普遍性において完璧と言えるものです。日本語訳ですらこれなのですから、神々と直接対話が可能と言われる原典のサンスクリット語での感激はいかばかりのものでしょうか?しかもこの原典ですら現代サンスクリット語ですから、より精妙で深遠と言われる古代サンスクリット語を読めるブラフマナ(バラモン)やヨギたちの至福はいかほどのものか。想像することさえできません。宮崎駿さんがラーマーヤナのアニメ化を受けなかった理由は分かるんですが、将来マハーバーラタの映画化をインド政府が日本に依頼してくる可能性は、大いに有り得ることだと思います。なぜかというと、日本にはゲームや映画などの仕事を通して自己を高めてきたアーティストが豊富に揃っているからです。CGA(CGのアニメーション)技術にしても、音楽にしても劇中に使える素材が沢山あるからです。今までは一本の映画には一人の作家が付いてサウンドトラックを作るというのが常識だったと思うんですが、この映画に関してはオールジャパンで立ち向かわないと歯が立たないと思います。例えばオープニングはすぎやまこういちさんの作品郡から珠玉のものを、愛情を表現する場面では久石譲さんの珠玉のメロディーを、エンディングは本多俊幸さんが音楽担当の映画「ガンヘッド」のエンディングテーマをというふうに、絵、音ともに最高の中の最高を厳選しないと太刀打ちできないと思います。CGA製作においてもゲームや映画制作会社がそれぞれの垣根を越えて取り組まないと纏まらないと思います。おそらく関係各者が映画完成後に抱く想いは「私はこの作品に携わるために生まれ、今まで精進して来たのだな」という想いだと思います。大叙事詩ですから、「第一話~の章」のように一回の公開は短編になると思いますが、日本人の職人気質を見せてほしいところです。全編完成した暁には永久不変の栄光と繁栄が、神々からこの国にもたらされると思います。


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